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第1節松坂世代ということは「能力があって当たり前」という世間の先入観を生んでいた(自身18歳)初めてアメリカに渡ったのが16歳(高校2年)の夏であった。 アメリカという国に憧れて野球の本場で何かをつかみたいと中学の頃から思うようになり、ある小さなメジャーリーグ年鑑の雑誌の1ページに小さく「メジャーリーグを志す若者が練習や試合をする施設」という紹介の文面を見たことがきっかけであった。 この当時はまだ野茂選手すらアメリカに行っていなかった頃である。メジャーリーグというものも日本ではあまり馴染みがなかった。ましてやメジャーリーグについて語られている雑誌などほとんどなかったこの時代にこの雑誌のこの文面を見つけられたことは奇跡であった。 そして頃合いをみてアメリカに行くチャンスを待ち、親にお願いをして行かせてもらった。親もまさか本当に行くとは思っていなかったようで、初めてこの話を持ちかけた時は2つ返事で行ってこいと言われたのを覚えている(笑) この頃はちょうど1年先輩の夏の大会が終わり、次の自分達の代の秋の大会まで2週間ちょっとあったことから、監督に申し出て、許可をもらって旅立った。
日本では練習はチーム全体で行うことが前提としてあり、それから個別で行うものが主流であった高校生の私の目には、個人に練習の責任が任されているスタイルはとても新鮮に映った。 当時の私の体型は本当に細く(体重60キロ前後)、背も175cmほどの小さな選手であった。180センチ後半の選手の中でひときわ小さく感じたのを覚えている。しかしその見た目を裏切るかのように16歳当時で140キロ近い球速があったため、逆にコーチは驚いたと言っていた。 そのときに1人のスカウトとの出会いがあった。そのスカウトはアトランタブレーブスのスカウトであった。コーチがわざわざ呼んでくれたのである。 そのスカウトにすっかり気に入られ、「プロになりたければ高校を卒業してすぐにこっちに来なさい」とまで言われたのである。 私は当時若かったためその言葉を鵜呑みにし、すっかりいい気分で日本に帰ったのである。 今思えば、ここから6年間の野球生活の波乱の全てが始まった。
そして日本に帰ってからが大変であった。アメリカでの自発的な練習の雰囲気に対して、日本式の一斉練習はとても非効率的に見えてしまい、特に感受性の豊かな16歳には理不尽なことのように思えたのである。 この頃から少しずつ日本野球に対して魅力を感じなくなってきたのが自分でも分かっていた。 決定的であったのが、かの「平成の怪物」こと松坂大輔(横浜高校→西武ライオンズ)選手の出現である。私の高校生としては自信のあった速球も140km/hを超えていたが、彼は甲子園の大舞台で150km/hをマークしたのである。これにはさすがに辛かった。 社会人野球のスカウトも私が2年のときは興味を示してくれていたのであるが、3年の春に松坂選手が150km/hをマークしてからというもの、甲子園に出る各高校のエース級の投手は皆140km/hをゆうに超える速球を投げていたため、140km/hでは珍しくないという判断に変わってしまった。 つまり、地元で一瞬騒がれただけで、私の存在も全国レベルではかすんでしまったのである。 それからというもの、甲子園→プロ野球という順路よりもアメリカ・メジャーリーグという舞台で何かを得たいと思うようになっていった。 そこには野球を超えた「ベースボール」があるはずだと、単純にアメリカに行けばメジャーリーガーのように目の覚めるような速球を投げられるようになるんじゃないかと淡い夢を抱くようになったのである。 ウエイトトレーニングを強烈に行い、3年の夏にはまた渡米し、高校を卒業できるだけの単位を取得すると、卒業式を待たずにアメリカへと渡るのである。 このとき体重はウエイトトレーニングにより10キロ増え、70キロとなっていた。 そしてこのとき悲痛にも第一の裏切りを「ベースボール」の国アメリカで洗礼として受けるのである。
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