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第2回勝負の結末
今では日常的にアメリカメジャーリーグの情報がテレビ、雑誌で流れており、マイナーリーグという過酷な環境と華やかなメジャーリーグというアメリカンドリームを持ち上げたメディアの風潮は、尚アメリカという国に対して夢を抱かせる演出として、日本の若者の目に壮大なドラマとして映っています。 アメリカンドリームという言葉の本当の意味を知らないままアメリカに渡った当時の私は、大きな違和感を覚えるのにそう時間はかかりませんでした。 アメリカの広大な大地、多人種の混在する文化、大きく動く経済。 「チャンス」ということに対する認識が大きく違うことを私は痛感していました。 今でも私は思います。確かにアメリカはチャンスが多き国です。しかしアメリカは日本よりもチャンスが与えられない、一発勝負の国である、と。一度ミスをし、それを次に取り返せばいい、そんな考えはアメリカにはない、と。 どういうことなのでしょうか。アメリカはチャンスの国ではないのか、と多くの人が思うと思います。
たとえば野球で例えてみます。アメリカベースボール(特にインディペンテントリーグ)では、ピッチャーは3試合つぶせばクビです。しかし、チームの絶対数が多いため、クビになってもまた拾ってくれるチームがあったりします。これはチャンスが多いというのは、判断をする分母が日本に比べ圧倒的に多い、ということでもあるのです。 日本であれば、どのピッチャーがどのようなタイプでどのような能力を持っているのか、というのは各チームが周知しています。これはチーム数、そして各チームに所属している監督コーチの数が少ないからでもあります。 アメリカメジャーリーグは30球団あります。そしてその下に多くのマイナーリーグを抱えており、そしてそれとは別にインディペンデントリーグが8〜10リーグもあるのです(年によってリーグ自体が解散したり発足したりするので数は前後する)。ということはどのチームに行っても、他のリーグ、あるいは他のチームのマイナー選手のことなど知らないに等しかったりするのです。 初対面なら、第一印象がほとんど全てを決めてしまいます。しかし、そのときにいい評価を得られなかった場合、ほとんどの場合がそれ以降の評価がくつがえるまでチャンスを与えてくれません。チャンスがほしい場合、移籍する(チームを変わる)ほうが早いということになります。 チャンスが多いというのは、人口やチーム数などの環境的要因で、その絶対数は多い、という意味です。しかし、判断基準に対して非常に厳しいのです。一度失敗のイメージが付くとなかなか機会すら与えられないのが現実です。 特にインディペンデントリーグは選手の入れ代わりが激しく、シーズンが始まったときとシーズン終了時で選手がほとんど違うというチームもあります。これはほとんどが移籍、あるいはクビになったということなのです。 まず日本という国の事情として、野球をしなくても生活は出来る、生きていけます。バイトだけの生活でも飢え死にすることはまずありません。 これは日本という国の豊かさの象徴であり、海外での日本人選手の弱さでもあります。
私がシーズン前のキャンプでの生き残りをかけた最後のオープン戦での試合のことです。 ピッチャーの最後の1枠をめぐって私ともう一人のコロンビア(南米)出身の左ピッチャーが登板予定でした。この左ピッチャーが先発で3イニング、私がその後を受けて3イニングという流れでした。 この試合でクビになるか生き残るかが決まるのことが分かっていました。 彼は妻と子供3人をアメリカに連れてきており、球場のスタンドで毎日練習や試合を見に来ていました。アメリカで稼ぐために故郷から連れてきたと思われます。貧しい国からすればそれはまさにアメリカンドリームです。 試合はまだシーズンに入っていない、プレシーズンであるので、相手側も調整ということで主力半分といった感じでした。抑えるのはそう難しくなく、問題は内容です。 彼は打たせてとるピッチングで、3回を無失点、与えた四球もゼロでした。 私は向こう側の打順のせいもあってか、被安打2、四球2、失点1でした。 試合に対する結果としては向こうの勝ちでした。私もそれは覚悟していました。そして彼はプロ3年目、私はルーキーです。実績も違います。
彼には4人の家族がいます。きっとここでクビにでもなったら、路頭に迷うことでしょう。明日の生活もままならないに違いありません。3人の子供はまだ小さく、一番上の子でも6〜4歳といったところでした。ここで本当に家族を含めた彼の人生の全てがかかっているということなのです。 私は日本人であり、帰る故郷があります。ここがダメでも日本に帰れば生活はしていけます。 彼がチームに残れるのなら、私はクビになってもいいかなという思いもありました。相手に情けをかけるようではこの厳しい勝負の世界ではまず生き残れません。このときの私の精神状態はもうすでに彼に負けていたのでした。 そして試合後、私はマネージャー室に呼ばれました。
背番号18、契約書に正式にサインをすることになりました。生き残ったのです。 その後、左ピッチャーの彼が私と入れ替わりでマネージャー室に入っていきました。彼にはクビが告げられたことでしょう。私には未だになぜ私のほうが生き残れたのか分かりません。私のほうが若かったというのと、日本人ということで話題性があり、客が呼べるといったくらいのことしか勝因はなかったのではないかと思う程度です。 しかし彼の抱えるものと、私の夢では、明らかに重さが違います。それを垣間見た私は、本気で彼を蹴落としてまで野球をしようとは思えませんでした。これが日本人である私の弱さでもあったのかもしれません。もう一度このような状況になったときに、勝つために、生き残るために、何でもできたかというと、自信はありません。
彼がマネージャー室から出てきて、スタンドにいた家族のもとへと向かい、何かを話しました。彼はロッカールームに荷物を取りにきたときに私に「お前の素質とピッチングに対する姿勢はすばらしい。これからも頑張ってくれ。」と笑顔で言いました。私はかける言葉が見つからず「ありがとう」とだけしか言えませんでした。 私は、これでよかったのか、と思い彼を見送るために球場の入り口まで行きました。彼の子供のうちの一人が球場のスコアボードを見つめていました。 私は今でもこの少年の目を忘れられません。 私はこの家族の夢をも背負ったのでした。これ以降私は簡単に野球を辞めるなんてことを思わなくなりました。野球が出来ることがどれほど幸せか、とこのとき痛感したのです。 アメリカにはこうしたドラマがあちこちで繰り広げられているのでしょう。 私には多くの戦友がいました。しかしそのほとんどを競争の中でなくしてしまいました。そして当時はがむしゃらで怖いものなどなかったのですが、晩年にふと気づいたことがあります。 多くの人が夢見たアメリカンドリームを支えているものは、多くの血と涙なのではないか、と。
次回 第3回:裏切りのポイント
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